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結果もだけれど「当たり前」が盲点となって「過程」が評価されないこともある

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ある程度目標を達成するとそれ以上突き抜けない。
もっと良くなろうとしない癖がある。

痛みを避ける行動だったから、痛みを感じなくて済む状況が近づいたらそれ以上は行かない、という中城せんせのフィードバックは要因の一つだと思う。

ただ、成績伸びた時はまだ嵐の中だったんだよね。
いわゆる学校の勉強=成績の良し悪しということで考えてみると、なぜか我が家は僕が勉強できるのは当たり前だという価値観を特に母が持っていた気がする。
よく「あんたはお父さんに似てるから、頭がいいはず」なんてことを言っていたし。

確かに、うちの父は相当頭の良い人だと思う。
だからと言って、僕が頭が良くて当たり前というか勉強ができて当たり前という理屈はおかしいわけで。
基本的に頑張った結果、良い成績を取ってもそれは当たり前、成績が下がると叱責されるという構図が生まれていたのですよね。

つまり、身を投げ出して努力して偏差値を上げてさらに上の難関校を目指そうが(行きたい学校があったので目指す気がなかったことは脇に置いといて)、目標校に入れる学力が落ちない程度に維持しようが、特に母にとっては「関心のないこと」だったのかもしれません。
父に似て頭が良いのだから、頭が良くて当たり前、ことさら評価することではない、と、いうことなんだろうなぁ、と当時の自分は理解していたのかもしれません。

# すでに終了したことなので、推測でしかない。母は鬼籍に入っているので、確認のしようがない

つまり、頑張ったところで、最大の評価者である親(特に母)は褒めてくれるわけでも、評価してくれるわけでもなく、どこまで言ってもひとりぼっちじゃないか・・・というふうにどっかで定義づけていた、のではないかなと想像します。
なんで書き方が曖昧かというと、うすらぼんやりそんな感じがするという体感しか自分の中にないから。

# ある意味この件は終了していて、いつまでも囚われてる「現在の僕」に課題がある、と言った方が良い。
# ていうか、それはそれとして、もっとすごくなっていい!って心の底から定義し直す作業のためにこれやってる気もするんだな。

つらつら思い返すに、頑張っていたことって、我が家ではそれほどに評価された記憶がほとんどないなぁーと今更ながら思ったり。
あー、小学校から中学校も近くの公立に行きたくなくて(小学校の同級生がくるから)、受験をしようとしたのですが準備が遅くて不合格だったんですよ。

それはそれとして。

受験勉強としてのベースの考え方ができてないから、いきなり受験用の問題を渡されても解けないわけです。
塾も6年の秋くらいからしか行かなかったし。
で、解けないと押入れに閉じ込められるわけですよ。
父にどんだけ投げ飛ばされたか(汗)

でも、自分で言い出したことだから、勉強しなかったりできないと言って投げ出したりするとめっちゃ怒られるわけです(当たり前)。 ここの部分も、「すごくなる・突き抜けるために頑張ろうとすること」をそもそも諦めさせる要因だったのかもしれません。

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